ポーランド🇵🇱〜アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で思ったこと〜
どうも。
miyuです。
前回の記事でアウシュヴィッツ強制収容所のある街オシフィエンチムに片道4時間半かけてきた私。
オシフィエンチムはポーランド語。
ドイツ語読みでアウシュヴィッツ。
世界にはアウシュヴィッツという名で知られていることが多いと思います。
もちろん私もその中の一人でした。
前回も書いたのですか、
今回のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所のガイドは日本語ガイドの中谷剛さんにお願いしました。(事前予約)
雪もちらついており、かなり寒い日でしたが、
たくさんの方が見学に来ていました。
中谷さんが言っていたのですが、年々見学者が増えているそうです。
それは日本にある広島、長崎も同じく年々世界各国からの見学者が増えているみたいで、
今、こうゆう時代だからこそ、より注目されている、とのことです。
この先世界情勢がどうなっていくかわからない世界だからこそ、今知ることができて良かったと思っています。
私が今回ここに来るにあたって
たくさんの知識をもっていたわけではありません。
本や映像などで見ていて知っていた。
でも、それがポーランドにあるってことを昔から知っていたわけでもないし、
昔起きていた出来事という認識はあるし、
興味もあるけど、本や映像以外で知り得る方法もわからない。
これが私にとっての現状でした。
世界一周をする。
もう次にポーランドにくることはないかもしれない。(私はどの国に対してももしかしたらもうこの国にくるのはこれが最後かもしれないと思い旅をしています。また来たい行きたいって思うのは事実ですが、人生なにがあるかわからないですからね‥‥涙)
こんな良いタイミングはない。
よし、行こう。
そして、実際に行って、現地で話を聞いて、知りたかった。
今回は中谷さんのガイドの元に記事を書いて行きたいと思います。
当日、3時間ほどかけてアウシュヴィッツとビルケナウの二つの収容所の見学をしました。
まず、アウシュヴィッツ強制収容所で一番初めに目にしたのはこの看板。
「ARBEIT MACHT FREI」
(働けば自由になる)
とかかれています。
ここを通った人で
働いて自由になった人はいない。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所には
ユダヤ人、ジプシー、政治犯、同性愛者、障害者、聖職者がヨーロッパ各地から約130万人が連行され、収容、
アウシュヴィッツ強制収容所だけでは、収容しきれなくなり、ビルケナウ強制収容所が作られました。
ここには一時的に
アンネフランクも収容されていたそうです。
もともとは、政府に反抗したドイツ人や捕虜などを収容するために作られた収容所であり、
ドイツがポーランドにドイツの街をつくろうとし、それを反対したポーランド人と戦争になり、ポーランド人を収容するためアウシュヴィッツが作られたとも言われてるそうです。
それがこの収容所の最初の目的ではありましたが、
そのようなフレーズで浸透させ、そのような認識をもたせ、のちにユダヤ人を収容する施設になったそうです。
どうしてユダヤ人だったのか。私も気になりました。それはその時代ユダヤ人に国がなく、各地にユダヤ人が生活していたそうです。
国がないということは、重要なワードになってくるとのことでした。
国がないからこそ、社会的に弱者になってしまう。
国がないのに発展していくユダヤ人が気にくわない、ユダヤ人が裕福なのが気にくわない、ドイツの国を苦しめているユダヤ人を追い出そう。
この貨車が何台も何台も続いており
人が入りきれないほど押し込まれ、2日3日と乗り続け、収容所に送られる。
もらえるのはパン1つだけ。
もちろん座ることなどできない。
食料もろくにない。
ここにつくまでに息絶えてしまう人もいたそう。
(ビルケナウ強制収容所)
(ビルケナウ強制収容所)
(ビルケナウ強制収容所)
そして、ここに到着して待っていたのは
死の選別。
それを行うのはドイツ側の医師。
医者が人の死を決めるのです。
強制的に。
命を助けるべくための医者が。
働けるか。
それは年齢や顔色。
ほぼそれだけを見て決められる。
小さな子供。老人。
使えるか、使えないかで決められる。
右と左に分けられていきます。
そして
使えないと判断された人たちが向かう先は
ガス室。
ここで、70%〜80%の方が命を落としたそうです。
小さな子供達ももちろんいます。
小さな子供達は、自分がなにをされるのかこのあとどうなるかはわからないにしろ
このような場面で両親に迷惑をかけないようにしていたように見えた、ともお話を聞きました。
シャワー室で身体を綺麗にする
とだけ伝えられ、
来ている服や金属類を脱がせます。
そしてシャワーの代わりに強力な殺虫剤チクロンBが撒かれ一度に何百人の人達が殺されました。
壊されたガス室の跡。
持ってきた荷物は全て没収。
全てを再利用しようと考えられていたそう。
自分の住所を書いたカバン
後で返すと言われていたために住所がかかれています。
靴は何足も持ってくる人はいない、だからこそ一番いいやつを、履いてきていた人が多いと聞きました。
そしてそれは全て数字となっていました。
ただ、紙の報告書にかかれただけの数字。
ガイドの中谷さんがお話してくれたのは
数字になってしまえば、
それで捉え方が変わってしまう。でした。
どんだけ大量にあって
紙一枚の中の数字に記録として残る、だけ。
そのことを意味を考えなければならない、と。
労働できると判断された人たちは
縞模様と囚人服一枚を着せられ、
暑い日も寒い日も働かされました。
マークでその人がどの人かわかるようにしていたそう。
赤 ドイツに反対した政治家
ピンク 同性愛者
紫 エボバの承認
黄色 ユダヤ人
囚人の中で序列を決め、
監視なども囚人がしていたとのことです。
ガス室からでる死体を焼却炉で焼くという作業も囚人にやらせていた。
ドイツ側の人間がその事実を見なくて済むように。
そして
太っている囚人がその監視役。
寝るところも別で食事も別に与えられる。
だけどその他多くの囚人は
満足な食事がもらえるわけでもなく
寝るところも
綺麗と言えない小屋に何人も入れられ
一つの場所で5.6人寝ていた、たった一枚の薄い布で。-20℃にもなる極寒の日でも。
こんなことが起きていても
当時のドイツ兵は悪いことをしているという認識はなかったのかもしれないです。
と中谷さんはお話しされました。
それは
まさに、洗脳。
その言葉が頭によぎります。
当時ドイツは第一次戦争に敗北していて、経済も良い方向には向いていなかった
そんな中
いま自分たちがこうなっているのは、ユダヤ人のせいだ。と政府に国民も洗脳されていき、
誰も悪いことをしている認識にはならなかったのではないかと。
ここにきて、知りました。
私はただ本や映像でみただけで、
なにも知らなかった。
そう、痛感しました。
見学者には
ユダヤ人の方もかなりいました。
イスラエルの国旗🇮🇱を背中に掲げていました。
そうすることで
過去に起きたこの現実と向き合おうとしている。と。
ドイツ人の見学者は一番多いみたいで、
最近では日本人の見学者も年々増えているそうです。
特にどの国も若い方が多く
今だからこそ、若い見学者が増えているのかもしれません。と中谷さんもおっしゃっていました。
難しいことは言えませんが、
私は戦争はしてはいけない。
過去にこのような出来事があったからこそ、もう二度と同じ過ちは繰り返してはいけないと思います。
でもこれだけじゃいけない。
それは誰もが思っているわけで、
自分が思ったことや感じたことがこの世界に直結できるわけではないけれど、
なにか少しでもほんの少しでもこの先なにかに繋げていけたらいいのになあと思いました。
もちろんそれはとても難しいこと。
それも、分かっています。
昔おばあちゃんに
戦争の話をたくさん聞いた。
そうだよね。もう二度と戦争なんてしてはいけないよね。
そんなことしか言えない自分はちっぽけだし、
そんなことしか言えなくてごめんね、おばあちゃんと心の中で思ったことを今でも思い出せます。
ただ、この場所を訪れることが出来たこと、
ただそれだけでも
自分の中では良かったと思います。
私は今回のように少しでも世界について知っていきたい。
と改めて思いました。
そう思わされました。
ここまで読んでくださり
ありがとうございます。
(今回の記事はあくまでも私の意見です)
ブログランキングに参加しています☺️
にほんブログ村
良かったら押してください!!!⭐️
では、また。